「どうぶつ奇想天外!」が映し出す厳しい自然界。
野生動物たちは誰もが、自分の命をつなぐことで精一杯。
他人のことにかまっている余裕はなさそうです。
と思いきや、互いに助け合う意外な動物がいます。
吸血鬼ヴァンパイヤを思わせるチスイコウモリです。
【リアル・ヴァンパイア】チスイコウモリ『吸血』の一部始終をお見せします。
助けてくれた相手にお返しをする…!?
中南米に棲むチスイコウモリは体長10cmほど。
夜になると洞窟から飛び出して、獣や鳥の血液を求めて活動します。
獣にそっと近づき、カミソリのような歯で傷をつけます。
唾液の成分により、出血は止まりません。
その血を、ぺろぺろ舌で舐めとるのです。
お腹がいっぱいになると洞窟などにある巣に戻って群れを作り、昼間は寝て過ごします。
カメラは洞窟の中で、子育て中のお母さんが別の大人に赤ちゃんを預けるところを捉えていました。
彼らは優れた社会性を持っているのです。
妊娠中や授乳中のお母さんには、たっぷりの栄養が必要です。
でも、吸血に失敗する日もある。
そんな時、お腹がいっぱいになった仲間が、血を分けてくれるのです。
「妊娠中は大変でしょう。いいですよ、たくさん食べましたから、少しくらいどうぞ、お互いさま。」
「ありがとう、ほんと、助かります!」
さらに、チスイコウモリは恩義を忘れないらしい。
以前に誰かを助けた者ほど困った時に助けてもらい、逆に、他者に冷たくしてきた個体は誰からも援助されない、ということがあるそうです。
これを【互恵的利他行動】と言います。
チスイコウモリの世界では、他者を助けたほうが生き延びて、子孫を残せるので、利他行動が続いていると考えられています。
「お互いさま」…利他主義の方が得をする
コウモリにも「思いやり」はあります。
こうしてみると、人間の利他主義は、人間だけの美徳というわけではありません。
そして、それは「美徳」というよりは、むしろ生き残るための「戦略」とも考えられるのです。
人はひとりではとても弱い存在です。
私たちの祖先がアフリカの野生動物だった頃、誰もひとりでは生きていけませんでした。
仲間同士が力を合わせて狩りをし、猛獣から逃れ、何とか生き延びていました。
そんな頃、誰かが強引にワガママばかり通していれば、仲間から排除されたでしょう。
厳しい野生の世界では、お返しをしない非協力者を抱えていれば、共同体ごと倒れてしまうからです。
「お前なんか仲間じゃない。今すぐ出ていけ!」
共同体の外に出れば、猛獣の餌食になるか、飢え死にするしかありません。
何とか生き残ったとしても、子供を生み育てる余力は残されていません。
「お互いさま」と言いながら生き延びた私たちの祖先。
こうして長い時間をかけて、思いやりを持つような遺伝子が残ってきたと考えられます。
こっそり得する奴は許せない!
人間もチスイコウモリも、【互恵的利他行動】は主に顔見知り同士のやりとりです。
チスイコウモリでは同じ洞窟に棲む者同士、人間社会では学校とか職場とかご近所とかで、「お互いさま」が成立します。
人間がチスイコウモリと異なるのは、“不公平”に対してかなり厳しいことではないかと思います。
私腹を肥やすな。ごね得は許さない。甘い汁を吸う奴ら。ずるい。汚い…etc
不公平を許すと、他者に与えた親切を取り戻せないので、ある意味、自然な感情と言えるでしょう。
さらに人間は、共同体の輪を乱す行動に制裁を加えようとします。
法を犯せば罰を受けます。
これは当然です。
人間社会では、そこに同調圧力が加わります。
顔色を伺う、空気を読む、みんなで渡れば怖くない、長いものには巻かれろ、忖度する…etc.
そうして、「仲間か、仲間じゃないか」の線引きが始まります。
でも、その線引きにこだわりすぎると、まずいことが起きてしまいます。
「仲間じゃない認定」の怖さ
学校や職場では、「仲間じゃない」と認定された瞬間に、“いじめ”の対象になってしまうことがあります。
さらに、「仲間じゃない認定」は、人種、民族、性、病気、障害、職業など、あらゆる差別に発展します。
中国のウイグル族への弾圧、アメリカのBLM運動に発展した人種差別もそうでしょう。
ネット炎上や誹謗中傷も、この延長線上にあると考えれば、解決の難しさがわかります。
所属する集団の一員であることを確かめるために、少し外れた人を、いじめる。
誰かを「仲間じゃない認定」して攻撃するのは、自分が「仲間」にいる安心感を得るためでしょうか。
しばしばあることです。
人類史から見れば、共同体から追い出されることは、生死にかかわる大問題です。
人はひとりでは生きていけないからです。
だから、いじめられる側、差別される側、誹謗中傷される側の痛みは、尋常ではないはずです。
TBSのセミナーで、過去に何回も、されてきた側の方々のお話を伺いました。
その度に、つらすぎて胸が痛みます。
素晴らしい仲間も、利他主義も、人間にとってとても大切なものです。
困っている人を、みんなで助ける社会であってほしいです。
もしもできるなら、できるだけ、「仲間か、仲間じゃないか」の線引きを曖昧にした方が良い。
そのぐらいが、ちょうど良いのではないかと思います。